ヨルヨム会第5回 まとめ

最終更新: 7月28日


7/9、『夜と霧』をみんなで読む会(ヨルヨム会)第5回を11名の方に参加いただき、開催しました。全7回で完読を目指しており、いよいよクライマックスに突入していきます。

※企画の趣旨や背景は、こちらのブログにてお伝えしています。

※第1回のまとめはこちらに載せています。

※第2回のまとめはこちらに載せています。

※第3回のまとめはこちらに載せています。

※第4回のまとめはこちらに載せています。

第5回はp.94「脱走計画」から輪読を始め、p.122まで読みました。


今回読んだ部分では、強制収容所での生活がどのようにして終わって行ったのか、そして収容所生活での体験をいわゆる心理的な側面から深く考察していく内容へと入っていきます。


特に、今回読んだ中でみなさんにもご紹介したい一節があります。コロナ禍で『夜と霧』が注目をあびるようになった理由にもつながる部分だと考えるからです。



ラテン語の「フィニス(finis)」には、よく知られているように、ふたつの意味がある。終わり、そして目的だ。(暫定的な)ありようがいつ終わるか見通しのつかない人間は、目的をもって生きることができない。ふつうのありようの人間のように、未来を見すえて存在することができないのだ。そのため、内面生活はその構造からがらりと様変わりしてしまう。精神の崩壊現象が始まるのだ。これは別の人生の諸相においてもすでにおなじみで、似たような心理的状況は、たとえば失業などでも起こりうる。失業者の場合もありようが暫定的になり、ある意味、未来や未来の目的をみすえて生きることができなくなるからだ。(『夜と霧』新版 p.118


終わりと目的。それがないと人間は精神の崩壊につながると言っているのです。


もし私たちは「コロナが○○年○月○日になれば、収束しますよ。」と今教えてもらっていたら、「どうやったらそこまで持ち堪えられるか」と考えることができます。でも、それはまだできません。いつ終わるのかはまだまだ見通せない状況です。これは一つの精神的な危機的状況だと言えます。


それをいかに乗り越えていくか、そのヒントがこの先に続いています。それは第6回・第7回でのお楽しみ!


というわけで、今回も参加者のみなさんの感想をご紹介します。

• 収容所から解放されるその経緯も手に汗握る展開で、希望と絶望が物凄い振れ幅でもたらされるのが壮絶で言葉もないです。


•最後に読んだ無期限の暫定的存在とfinisの話が印象的でした。珍しく自分の経験に置き換えやすい話で、1日が1週間よりも長く感じるというのも育児を始めた頃を思い出しました。どのような環境下でも自分のありようを決めるのは自分だというメッセージは、ここまで読んできた収容所内の状況と合わせて解釈するとあまりにも厳しく、実践も難しく、受け止めきれない無力感のようなものも感じますが、「ここでもうひと頑張りできるか?(したい)」というときに背中を押してくれることを期待してこれから先も持っておきたい言葉です。


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• これまで読んてきた部分は、どちらかというと収容所生活での状況が描写され、それに対比した人間の感情が描かれていたと思いますが、今回読んだ部分は一気にこころをえぐるようなの内面の描写が多く、みんなで読んだ時間だけではまだその強烈なメッセージが飲み込めない自分がいました。なので、今回は丁寧に復習してみました。色々と心に残る文章があり、引用をしたらきりがないのですが、ひとつだけ印象に残った文章を。


すなわち、わたしたちを取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか、という問いだ。もしも無意味だとしたら、収容所を生きしのぐことに意味などない。抜け出せるかどうかに意味がある生など、その意味は偶然の僥倖に左右されるわけで、そんな生はもともと生きるに値しないのだから。(『夜と霧』新版 p.113

フランクルはここで、生と死と対比しているのではなく、「生と死は同一であることを認めよう」ということを語っているのではないかということを受け取りました。その前の部分で死を目前下した少女が、木の命と自らの命を重ねて語っていたこととつながっていると思います。

・かつて道元禅師が「今、自分が存在している場所で真実を見つける事ができないというなら、一体どこに真実があるのだろう」と語っていたこととも通じるのであろうと。。。真実を見つめようした人たちは洋の東西を問わず、同じようなところにたどり着くのだなと実感しました。あと2回で終わるのが、もったいないない感覚です。じっくりと読んで噛み締めたいと思います。

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• 「人間には「ほかのありようがあった」」(p.110)。この辺りから、フランクルの思索が奔流となって迫ってくる。激しい流れのために一読してして全てを把握することはできないし、読む度に、水面に現れて目にできるもの、濁流のなかで手につかめるものが違ってくる。そのなかから今回は二つ、報告する:

人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断が下せるのだ。典型的な「被収容者」になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ(p.111-
勇敢で、プライドを保ち、無私の精神をもちつづけた(p.114*))
強制収容所の人間の内面生活がいびつに歪むのは、つきつめればさまざまな心理的身体的なことが要因となってそうなるのではなく、最終的には個々人の人間の決断いかんにかかっていた(p.117
外面的には破綻し、死すらも避けられない状況にあってなお、人間としての崇高さにたっした(p.122

→ 自分自身で決め、なお人間として踏みとどまれた人間はどうして踏みとどまれたのか。このひとを支えたもの(価値観、信仰など)はどういったものだったのか。


わたしの心をさいなんでいたのは、これ(生きしのぐことができるのかという問い)とは逆の問いだった。すなわち、わたしたちを取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか、という問いだった。(p.113

→ フランクルは、この自らの問いにどう回答しているのか。

これら2つを意識して読み進めたい。

追記+*:「F(厨房係 p.78)は、もうひとりのフランクルだ」と前回書いたが、「厨房係Fはフランクル自身(フランクルが自分のことを第三者として記録しておいた)」とも今は感じている。「プライドを保ち、かつ(公平)無私であること」(p.114)、(このふたつを同時に支える膂力はいかばかりかと驚嘆する)、と重ねて考えたい。

次回、ヨルヨム会第6回は7月16日です。

次回はいよいよ、あの有名な一文が出てくるはずです。次回も楽しみです。


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