ヨルヨム会第6回 まとめ

最終更新: 7月31日

伊東です。


7/16、『夜と霧』をみんなで読む会(ヨルヨム会)第6回を13名の方に参加いただき、開催しました。

※企画の趣旨や背景は、こちらのブログにてお伝えしています。

※第1回のまとめはこちらに載せています。

※第2回のまとめはこちらに載せています。

※第3回のまとめはこちらに載せています。

※第4回のまとめはこちらに載せています。

※第5回のまとめはこちらに載せています。


第6回はp.122「教育者スピノザ」から輪読を始め、p.145まで読みました。


今回輪読した部分には、『夜と霧』で一つのハイライトとなる箇所が出てきます。

「生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ」(p.129

この部分は、私が初めて読んだ時から、深く、深く心を打たれ、とても励まされたという記憶があります。そしてこの文を読んだところで、「すぐではなくていい。人生の中でいつかこの人の言っていることをきちんと学ぶ時間を持ちたい」と心に誓ったのでした。その結果、数年後にその機会に恵まれ、すばらしい学びを先生や同学のみなさんからいただいて、少しずつ実践を積み重ねている今があります。


今回のヨルヨム会の開催もコロナ禍という問いかけに対する、私や私たちJWなりのアクションだと言えるのではないかと考えています。


さて、今回は参加者のみなさんはどのように読んだのでしょうか。今回もみなさんの感想をご紹介します。

・語り合いの中で、感性のなかでも、例えば芸術でも景色でも、こちらから見に行った場合と、そうでなく、受動的に否応なく入ってきたときの感動の方がより大きい、というのが印象に残りました。極限状態だからこそ、感動が深い、というのは、このような読書会の場でないと気づかないというか、話せないことかと思いました。


・前回、感想を書くことができないまま、今回読み進めていた。自分に触れることができるか。苦しみを味わうことができるか。そういった問いかけをされているように感じていたことに気づく。それもフランクルは、宇宙のなかの一点の存在として、それを味わうことを書いている。唯一無二のものとして。実体験を通して、それを報告してくれていたことに、この読書会を通して初めて触れることができている。


「no mud no life」ティック・ナット・ハン氏の言葉にも似たものを感じていた。また、ユージン・ジェンドリンの哲学的な問い方にも重ねて読み進めていた。深淵に触れ、源に触れ、そこから行動すること。そのシンプルな行為への選択。それを、あの状況下で行う人がそこに居たんだと。未だことばにならないものがある。



・フランクルはここで、現在と未来の関係性についてを示唆してくれているのではないかと思いました。「未来に向かって生きる」ということには大きく2種類あると。ひとつは「未来に大きな希望を抱くが、その未来と現在を関連付けずに現在を生きる」。もうひとつは「未来を神と(自分と)契約して、そのために現在を生きる」。後者であれば未来に期待しすぎることなく現在の選択が全てであるということを信じて生きることができるということを。しかし、それ自体は決して容易いことではなく、フランクル自身も、少し先の小さな未来(今日の夕飯のスープの中身はなんだろう?)に翻弄されて、自分自身を失ったことの告白もありました。


暗闇の中の演説もフランクル自身のみでは成し遂げられたことではなく、班長の指名と聴衆の存在があったからこそ実現できたものだったのではないかと思いました。でも、フランクルだからこそできたことかもしれませんが…。


「苦しみつつ、なお働け、安住を求めるな この世は巡礼である」というストリンドベリイの言葉を思い出しながらこの章を読んでいました。いよいよ最終回ですね。


・引用

「生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ」(p.129
「もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ」(p.130
「生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない」(p.130
「自分を待(ま)っている仕事や(自分を待っている)愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない」(p.134

フランクルがここで示している「コペルニクス的転換」とは、つまり「フランクル的転換」とは、私が主語になり、目的語として私の生を問うという「即自的」な立場を後にして(ヴァージョン・アップして)、生(人生)が主語となり、目的語としての私を問う「対自的」な視座を打ち立てることを言っていると捉え、衝撃を受けた。


1)このように理解して、思い出すことがある。今年(2020年)の2月、初めて本書を読んだ際、(事前の思い込みとは全く違い)人生肯定の書、「自己啓発書」とすら感じると、意外の感に打たれたことと、フロムの『愛するということ』の読後感と似ていると思ったことである。


後者については、どういったところが似ているのか、これを確認すべくすぐにフロムを再読。そのときは特に思い当たるところは見つけられなかった。


今回思い至ったのは、フロムが言っていることを「愛するということは、(空腹や眠気がそうであるように)欲動が自然に生じて、そのままそれを表出することではなく、(そうした生理的欲求の次元からいったん離れて(後天的に))学んで身につける技術である」とまとめ得るなら(もちろんこれは粗雑な要約だが)、フランクルは「生きることは、ただ主観的に(即自的に)生きることでなく、いったんこの主観から抜け出たところから、私という主観から離れたところ(それは神であったり、信仰的立場であったり、私を愛する子供であったり、私を通じて存在しようとするなにものかであったりする(*))から、自己を見つめ直すという過程を経て、(対自的に)生きること(生き直すこと)」と言っていると理解でき、こうしたものの捉え方、生きていく上での姿勢が2作に共通していて、よく似た読書感が私の内に生じたのではないかということである。


*「わたしたちを見下ろしている者」(p.139)


メモ:Calling(召命、職業召命観。「キャリア・パスのドアのこちら側には「ノブ」はない」)http://blog.tatsuru.com/2012/05/02_0959.html


2)この立場からは、意味がある・ないという問いは埒外に置かれ無効にされる。この「価値転倒」こそがフランクル的転換を示していると直観し、衝撃を受けたのだが、本書の記述にはこの後、再三「意味がない」という疑念に対し、「意味がある」という回答を示す姿勢が打ち出されており、フランクル的転換後の世界にあってなお、この問いが付きまとって来ること(そして、「意味がある」と回答すること)はどういうことなのか、これがまだ私には理解できていない。フランクル的転換(「意味・無意味の彼岸」)を経てなお、意味を問うことが有効なこととして現れる、そうしたフランクルの視座を知ることが、今後の私の課題である。


参考:「役に立つか、意味があるか、そんなもので切り分けることのできる命などない。生きること、命そのものに価値があるのだ。私たちはそう言い切らなければならない」(奥田知志)。https://twitter.com/tomoshiokuda/status/1286508740816953345



・旧版霜山訳と新版池田訳について。 原文との参照を経ていないので、どちらの訳文が原文に近いのか、フランクルの言いたいことを適切に訳出しているのかは分からないものの、霜山訳は方向性が明確で意味が汲み取りやすい。対して池田訳はニュートラルといえるだろうか。 広く解釈をゆるす訳文、「ふわっとした」表現のため、読み手の読み方が問われる。たとえば次を引いてみる(spは霜山訳のページ)。

「(私は(中略)人々に)われわれの状態の重大さを直視し、かつそれにも拘わらず諦めないことを望み、われわれの戦いの見込みのないことは戦いの意味や尊厳を少しも傷つけるものでないことを意識するように懇願した」(sp.191
「ものごとを、わたしたちの状況の深刻さを直視して、なおかつ意気消沈することなく、わたしたちの戦いが楽観を許さないことは戦いの意味や尊さをいささかも貶めるものでないことをしっかり意識して、勇気をもちつづけてほしい、といった」(p.139
「この世では一見何の成果も得られないかのように見えるということは(中略)犠牲の本質に属していることであるが、しかし犠牲は意味を持つのだと語った。そして宗教的な意味で信仰をもっている人はそのことをよく知っていると語った」(sp.191
「犠牲としてのわたしたちについて語った。いずれにしても、そのことに意味はあるのだ、と。犠牲の本質は(中略)この空しい世界では、一見なにももたらさないという前提のもとになされるところにある、と。もちろん、わたしたちのなかの信仰をもっている者には、それは自明のことだろうし、わたしもそのひとりだ、と」(p.139
「この世にはふたつの人間の種族がいる、いや、二つの種族しかいない、まともな人間とまともでない人間と」(p.144-


・私は、ひとりの人間の中に、まともな人間とまともなでない人間が、合金として存在しているように感じている。被収容者に対して「権力をかさにきたいやがらせ」(p.119)を終日してくる親衛隊員やカポーが、自宅で良き父親、夫であった、といった話はよく耳にする。これは現代日本でもよくあることだろう(あなたに執拗に嫌がらせ(ハラスメント)を働くその人は、その夫や子ども、ご近所、他のスタッフには、善良な市民や社員として振る舞っている、そうした評価(「善良な市民」)を得ているというのだ)。


こうした人間のあり様を、「合金状態」を、それが人間、人間社会なのだから甘受すべきと言っているのではない。むしろ、一人の人間のなかの「まともでない人間」というのは、言い換えれば、本人自身が制御できていない「荒廃」であり、そうである以上、周囲は、この「荒廃」を「荒廃」として明確に捉え(たとえば薬物やアルコール依存症を「病」として捉えるのと同じように)、直視し、治癒すべきことを本人に促さなければならないと言っているのである。



・「いい人は帰ってこなかった」(p.5)が毎回、話題になる。「いい人は帰ってこなかった」の対偶が「悪しき人は居残った」「憎まれっ子世に憚る」とするなら、次の記事が基体(「いい人は帰ってこなかった」)を理解する参考になるかもしれない。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74026



・引用

「わたしたちにとって、苦しむことですら課題だったのであって、その意味深さにもはや目を閉じようと思わなかった。わたしたちにとって、苦しむことはなにかをなしとげるという性格を帯びていた」(p.132
「わたしたちを見下ろしている者(友、妻、生者、死者、神・・・)は、失望させないでほしいと、惨めに苦しまないでほしいと、そうではなく誇りをもって苦しみ、死ぬことに目覚めてほしいと願っているのだ」(p.139

メモ1:『荘子』、 大宗師篇、第六。天が、私の臂(かいな。腕)を鶏に変えるというなら、と話す子輿(しよ)の話。


メモ2: モラル、品位(p.144) 。「自分をけっして見失うことのない強い心」をもつこと:

https://twitter.com/Deipnosophistai/status/1281082098552430592

https://twitter.com/Deipnosophistai/status/1281082196040626176

https://twitter.com/Deipnosophistai/status/1281082516992974848


「ニール・アドミーラーリー(なににも驚かない)という言葉があり、鷗外『舞姫』や漱石『それから』に登場するが、ストア派の思想を言うのによく用いられる。その意味は何事も前もって諦めることではなく、どのような不運に遭遇しても自分をけっして見失うことのない強い心をもてということである」



最終回は7月30日。5月から始まった輪読も無事最後まで読み終えれそうです。


さて、最後まで読んだ私たちがどんな気づきや問いを得られるのでしょうか。今から楽しみです。

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