ヨルヨム会第2回 まとめ

伊東です。

5月28日、『夜と霧』をみんなで読む会(ヨルヨム会)の第2回を開催しました。

※企画の趣旨や背景は、こちらのブログにてお伝えしています。

※また第1回はこちらにまとめを載せています。


今回から参加してくださったメンバーもいて、13名での開催となりました。みなさん、2回目ということでオンライン上からも、少しずつ慣れてきた様子が伝わってきます。その影響か初回よりも輪読できたページ数も増えました。


読んだ後は少人数に分かれての感想や気づきのシェアを行います。その後全体で話をする時間を少しだけ設けているのですが、そこで出てきた意見の一つに、「輪読を通して、いろいろ考えるが、読んだ直後にすぐに自分の感じたことや考えたことを言語化するのが難しい。24時間くらい経ってからやっと言葉にできる」というものがありました。私も初めて『夜と霧』を読んだときは、とにかく胸がザワザワして、でもすぐに言語化できない経験をしたことを思い出しました。


ヨルヨム会では、毎回終了後にアンケートを行うのではなく、一つの共有ドキュメントにみなさんから感想を書いていただく方式を取り入れています。それぞれの感想を後から他のメンバーが見えることで、また新たな気づきや発見につながることを期待してチャレンジしました。


その感想コーナーですが、今回は終了後から時間を置いて感想を書いてくださる方が目立ちました。もちろん終了後すぐに書いていただいても嬉しいですし、輪読という同じ経験を共有しつつ、時間が醸成してくれる感想を書いてくださるのも、楽しみが増えるものだと私自身実感しています。


そこに書いてくださった皆さんの感想を、今回もシェアさせていただきます。

• あちらとこちらを強く意識した会だった。過酷な状況で麻痺することで生きながらえる人間という存在、そして状況によっては、ふつうの人が麻痺しながらも同じ人間に対して通常ではできないことをする。どんな悪夢よりも酷い現実の中で、生存するためには、違いをつくって自らの存在を守ろうとする。  日常でそんなことをしいていないだろうか。あちらとこちらを分けて酷いことをしていないだろうか。麻痺していれば自分では自覚が無い場合も多いのではと想像する。よくよく、自分の行動に気をつけたいと思った。

• 1回目はなんだか遠い世界のお話のように感じていましたが、2回目の今回は、日常にも同じようなことがあるような気がしてきて、何とも言えない気持ちになりました。新入社員の頃に受けた研修がネガティブな意味で印象に残っていたのですが、その体験ともリンクしました。私だと思っていることがそうではなかったり、当たり前にやっていることに良くない側面があったり、好奇心を忘れずに意識を向けていたいなと思いました。 • 『夜と霧』が以前にも増して言及されているように感じる(*)。本書への関心の高まりは、コロナ禍のため、日常に様々な抑圧が加わり、自由が制限されていることが、アウシュヴィッツ収容所に強制連行され、それまでの日常、自由、一切を奪われた状況を描く本書を連想させるからだと思われる。これは、デフォーやカミュの『ペスト』が、今我々が被っているあり様と重なるということから関心を引き起こし、盛んに読まれているのと同じだと言えよう。この視座からは、アウシュヴィッツや『ペスト』の世界と、コロナ禍の現在が同一視されている、と言える。  私にはそれだけはないはずだという思いがある。それは何なのか。  今回の音読の最中、作者が本書を執筆しているのは、アウシュヴィッツ後であり、そのアウシュヴィッツ後の世界から収容所世界を振返っている、このことに改めて気付かされた。 音読した箇所で、作者はその振返りにおいて、「アパシー」「感情の消滅や鈍磨、内面の冷淡さと無関心」という現象(病症) を指摘している。  我々の場合は、 コロナ禍の渦中にある世界からコロナ禍以前の世界を振り返っている、と言える。この振り返りにおいて、我々が感じていること、考えていることが、フランクルが本書で指摘したことと似通っていると予感し、もしくはそう明確に認識し、こうした予感や認識から生じた驚きや衝迫( 煽情的に言うなら「我々はアウシュヴィッツに生きていたのだ」という発見 )が、これほどまでに今『夜と霧』が求められていることの根底にあるのではないかと思い至った。これが先述した私の問いに対する暫定的な回答である。  アウシュヴィッツは、自由を圧殺する状況という点でコロナ禍の現在と重なるだけでなく、「アパシー」「感情の消滅や鈍磨、内面の冷淡さと無関心」が常態化していたという点で、コロナ禍以前の世界とも重なっている。言い換えれば、アウシュヴィッツは、コロナ禍の現在の状況も、コロナ禍以前の状況も、ともに先取りした先駆的存在なのである。とするなら、そこでの体験をつづった本書が、コロナ禍の渦中にある我々に、先駆的存在として現れ、読まれることになるのは自明の理である。  コロナ禍における預言の書としての 『夜と霧』 。私がどう読んだのか、読書会を通じて知るのが楽しみである。

* ごく最近のものに限っても次が見つかる: ・猫町倶楽部、6月の本       http://www.nekomachi-club.com/

・週刊文春(2020.6.4号) 「名著のツボ」(実物未確認)

・啓文社、スタッフのおすすめ!(20200529) http://www.keibunsha.net/recommend/detail.php?id=625

• 一通り事前に読んだうえでの参加でした。1度目に自分だけで読んだ時は、ただただフランクルの体験を追うだけでしたが、今回皆さんと読んでみて「いまの私が大事だと思うところ」に線を引く作業が出来ました。

 読書会の最中から、頭のなかにずっと「人間の尊厳」という言葉が巡っていました。固有名詞を外され(=それまで生きてきた歴史や、それに依る尊厳・誇りをなきものにされ)、動物か機械かのように扱われる。我々が日常語で使う「プライド」とは異なる「人間の尊厳」的なものが踏みにじられていたことを今回の輪読部分で感じています。  同時に、そんな抑圧的な状況にあっても、そうする必要さえあれば、人間はなんとか心理的な防御態勢を取りながらその状況を対処できてしまうことも知りました。(フランクルの体験とは比べ物にならないけれど)今もいたるところで抑圧的な状況は作り出されているし、いたるところで”なんとかやり過ごしている”人はいると思います。  また、グループに分かれて話していた時、フランクルがほとんど「媚びる」という行動をしていないことに気が付きました。これは「こんな人達(カポーや監視兵)に媚びては”人間の尊厳”をさらに喪うことになる」という最後に残った気概のようなものからか、それとも「媚びるという気さえ起きない」という憔悴からくるものか、「媚びても良いことがない」という生命保持のための判断からか…、次回も考えながら読んでみたいと思います。


みなさんからいただいた感想は、共感できるものから、自分では考えてもみなかったという視点まで幅広く、ヨルヨム会の学びをより深めてくださる宝物です。


さてさて、今夜の第3回はどんな感想が寄せられるのでしょうか。

第3回は、p.47の「飢え」のセンテンスからの輪読となります。今夜も楽しみです。


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